京義線
下: 旧下り線のトンネル(ムン山方)
単線時代からあるもの
上: 旧上り線のトンネル(長端方)
複線化の時にできたもの
細かい穴は朝鮮戦争の弾痕なのだろうか
都羅山
臨津江
雲泉
廃線跡の現状 調査年月日 1989.3.17
京義線 ムン山−臨津江橋梁
ムン山駅を越えた線路は、その先にある米軍の基地への輸送のために残されている。この線路は、かつての京義線の上り線に相当する位置である。しかし、その距離はわずか1km程で行き止まりとなる。その地点には、数年前まで<鉄道分断点>の看板が有ったと思われるコンクリートの台があった。つまり、わたしがここを訪れた1989年3月17日には、京義線の<鉄道分断点>の看板はなかった。その先レールがなくなって左にカーブするところで、ここまで複線分の広さがあった路盤が左右にわかれる。そして、それぞれは単線の切り取りとなってトンネルに続いていた。左のトンネルは石積みで出来ており、右のトンネルはコンクリートで出来ていた。この区間の複線化は1941(昭和16)年11月25日である.。
このふたつのトンネルは現在通行することが出来ないので、丘越えする道路を迂回してトンネル出口を探すと、コンクリート製のものひとつだけは見付けられたが、もうひとつは見逃してしまった。このトンネル出口にはいくつもの小さな穴が開いていた。この方向が、北朝鮮にむいていることを考えると、穴の正体が朝鮮戦争のときの銃弾の跡ではないかと予想することが出来る。トンネルを過ぎると再び複線の幅をもつ路盤が続き、途中に3箇所の小川の橋台跡と、信号機の台座と思われるコンクリートの固まりを確認できた。この後、路盤は板門店へと続く国道に合流して、その下に埋まってしまっている。ちょうど、馬井里の辺りである。
ここから約2km歩くと、国道から左へ単線分の幅をもつ路盤らしきものがわかれ、コンクリートの橋を渡って道路脇の広場へと続いていた。 広場をでると路盤は上下線に別れていたものと思われ、その下り線はそのまま築堤として残っているが、上り線は、国道に姿を変えているようだ。下り線の築堤は、途中に橋脚1本と橋台、橋脚3本と橋台を残すふたつの川を渡って、臨津江岸の臨津閣へと続いていた。この橋脚はコンクリートで出来ていたので複線化のとき新設された線であることがわかった。この辺りに臨津江駅があったのだが、朝鮮総督府官報によれば、それは昭和13年9月1日から昭和16年10月31日まで、簡易停車場としてである。臨津閣を過ぎると、すぐに臨津江橋梁である。臨津江複線橋梁の完成は1941(昭和16)年11月25日である。
下り線の橋梁は現在板門店へと続く国道の橋として使われている。そして、上り線のものは朝鮮戦争時代に破壊されたまま放置されている。
下り線のものが複線化の際に新設されたものである。
臨津閣は臨津江以北へ立ち入りを禁じられている一般韓国人にとって北を望む限界地点であり、いくつもの祖国統一の祈念物がある。この中には鉄道分断を刻む碑が有り、蒸気機関車と客車がおかれている。これはミカサ244と旧鮮鉄の客車ハ9(14080)である。