サンフランシスコ行きが新港埠頭4号岸壁、欧州行きが新港埠頭9号岸壁、シアトル行きと外国船の北米航路、欧州航路、クルーズ船は大桟橋を利用していた。東京からの臨港列車が桑港航路の出航日に限って新港埠頭4号岸壁の横浜港駅まで運転されたのはこのためである。
鉄桟橋の旅具検査所・待合所は初めは桟橋の根元にがあったが、大正6年には木造2階建ての上屋が拡幅された鉄桟橋中央部に建てられ、その中に移った。当時は鉄道の引込み線も桟橋の新港埠頭側に引かれていた。昭和3年には鉄筋2階建ての2代目上屋が建設された。戦後は定期船は外国船が残ったが、次第に飛行機の時代に移行して、わずかなクルーズが来航する程度となり、旅客船は専ら大桟橋で扱うようになった。昭和39年の東京オリンピックのころには3代目の上屋が完成し、4代目が平成14年に完成して現在に至っている。、
一方、新港埠頭では4号岸壁には 昭和2年7月 上屋が完成し、昭和3年 からは東京駅からの臨港列車が上屋に横付けされるようになり、横浜港でもっとも設備の充実した上屋となった。この上屋は戦後の氷川丸(昭和28年から35年まで)の復活でも活用されたが、昭和54年に解体され、旅客列車ホームは一部が赤レンガパークの一角に残されている。
横浜港
豪州航路
南洋航路
南米アフリカ航路
横浜港(新港埠頭)出航の様子 (絵葉書)
横浜港駅周辺地図 昭和21年測図
横浜港最終列車の乗車券(見本)
鉄桟橋(大桟橋の前身) 大正6年までは桟橋上に上屋はなく、桟橋根元のグレーの建物が旅具検査場・待合所であった。(絵葉書)
新港埠頭4号岸壁から浅間丸が出航するところ。上屋と臨港列車が見える。(絵葉書)
大桟橋の上屋は昭和2年鉄筋2階建てとなった。(絵葉書・複製版)
新港埠頭の上屋は横浜で一番の船客設備を持っていた。(図録 横浜港を彩った客船 横浜マリタイムミュージアム 2004年)
新港埠頭
大桟橋
横浜港と外国航路
日本郵船の新造船土佐丸(5402トン)は、1896(明治29)年3月15日、ここ横浜をヨーロッパへ向けて出航していった。1852(嘉永6)年のペリー来航、1859(安政6)年の横浜開港と続いた日本近代海運の発展はついに、日本人の会社による遠洋航路を持つに至ったのである。高度な海事技術と強大な海軍力なくして成り立ち得なかったこの時代の遠洋航路開設は、日本の列強国の仲間入りを象徴するものでもあった。
日本郵船は、土佐丸に続いて、8月に三池丸、10月に山城丸をして、それぞれシアトル航路、メルボルン航路を開設した。同じころ、浅野総一郎は東洋汽船を設立し、1898(明治31)年、太平洋の花形航路、サンフランシスコ航路を開設した。パシフィックメイルが強大な力を持つこの航路に参入してきたのは、米国サザンパシフィック鉄道と連帯運輸の契約を取り付けることができたからである。
横浜港は第一期工事として1894(明治27)に従来からの象の鼻波止場の根元から鉄桟橋が作られ後に大桟橋に発展していく。1896(明治29)年には東西防波堤の建設工事が完了した。これに続く第二期工事は、完璧なる海陸連絡設備を有する埠頭の建設で1899(明治32)年に開始されて大正3年までに完成した。この埠頭は新港埠頭と呼ばれた。