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敦賀港と日満欧亜連絡
朝鮮北部・浦塩経由
日満欧亜連絡列車
北鮮航路
北鮮・浦塩航路
敦賀港と鉄道連絡
長浜から金ヶ崎(1919年敦賀港へ改称)へは明治15年(1882)年3月10日に開業(柳ヶ瀬隧道は明治17年開通)し、これにより日本海側で唯一鉄道連絡のある港街としての敦賀の発展が始まった。北陸線の延長は福井へ明治29(1896)年、金沢へ1898年、富山へ1899年、大正2(1913)年、青海−糸魚川間の開通により、米原−直江津間が全通した。 北陸線が開通していくにつれ、従来敦賀港に集まっていた北陸各地の農産物輸送が鉄道に奪われて、敦賀の経済を深刻な状況に追い込むようになってきた。しかし、1899年の敦賀の国際港への指定以降は大発展を遂げていく。
明治35(1902)年に敦賀−ウラジオストック間の定期航路が大家汽船によって開設され、露国義勇艦隊も1907年に同区間の航路を開設した。大家汽船の航路はその後大阪商船、北日本汽船と引き継がれていく。これらの航路は、ロシア革命の勃発(1917年)とくにシベリア撤兵(1922年)以降の衰退、昭和2(1927)年の日ソ通商条約締結で再びシベリア経由旅客の増加と経て、満州国の設立(1932)と日ソ間の緊張の高まりなどから、ウラジオストック航路主体から北鮮航路主体に変化していく。
その間、明治45(1912)年に開始された、敦賀港発着新橋(東京)直通列車は昭和15‐16年まで続き、その後は米原行きなどととして運転されていた。
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右:復元された敦賀港駅(1999)、 中:北日本汽船25年史 下:昭和7年鳥瞰図(常光) 下:絵葉書
SL敦賀きらめき号
敦賀駅と敦賀港線
柳ヶ瀬越え
山中越え
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朝鮮鉄道略図
満州路線図
日本の玄関
欧亜連絡
浦塩航路
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