敦賀−北鮮線は、昭和3年「伏木丸」をして敦賀−清津航路が開設されたが、続く不採算を乗り切り、満州事変、京図線開通によって満州国への最捷路として北鮮三港が重要性を増すことになる。「伏木丸」のあと使用船はいくつかの船を短期間使用し、鉄道省連絡船「高麗丸」を改造して「満州丸(3054総トン)」」として昭和8年から就航させた。昭和12年には大阪商船満州連絡線の「はるびん丸」を購入してこれにあてた。昭和14年には「気比丸(4552総トン)」が就航して、昭和15年には国策会社日本海汽船が誕生して航路が引き継がれている。10日に1回の運航で、浦塩線とあわせて10日に2回、敦賀発毎月1の日と6の日となっていた。
新潟−北鮮線は、嶋谷汽船によって新潟と雄基・清津を結ぶ航路が開設され、昭和10年、嶋谷汽船と北日本汽船の合弁で日本汽船が設立されこれを引き継いだ、昭和14年北日本汽船に合併され、昭和15年には新たに国策会社日本海汽船が誕生して航路が引き継がれている。昭和10年から「天草丸」、昭和13年から「満州丸」が加わり週2回となり、ついでこの年新造の「月山丸(4551総トン)が天草丸を置き換え、昭和14年から「さいべりあ丸」を加えて週3回の運航になった。昭和16年には「白山丸(4351総トン)」が加わった。