日本の敗戦後、朝鮮戦争の時代に中国から北朝鮮への物資供給路を絶つために国連軍はこの川の橋梁の朝鮮国内の部分を破壊した。新橋梁は復旧されたが、旧橋梁はそのまま放置され近年になって、残された中国国内の部分が鴨緑江断橋として公開されている。新橋梁の方は鉄道・道路併設となり鉄道は単線化されているようだ。
中国国境の新義州に鉄道が届いたのが明治39年4月3日、京義軍用鉄道として建設されたこの路線は、国境の川、鴨緑江に橋がかけられ、さらに安奉線の標準軌改築が成った明治44年11月から鮮満連絡路線として最重要幹線になっていった。建設当時の川の最深部が国境と定められ、ここに回転式の橋脚橋桁が架けられて、ジャンク通行のために毎日午前と午後1回ずつ開いていた。その後、ジャンクの帆柱が折りたたみ式に変化していったために、昭和9年3月31日をもってこの開閉は廃止された。この鉄橋は、中央部に単線の鉄道(京義線)と両脇に歩道が設置してあった。京釡・京義線は日満間の大動脈となり、輸送力増強のために昭和14年から昭和20年にかけて複線化されている。このうち鴨緑江の橋梁は昭和18年5月に複線の鉄道橋が完成し、旧橋梁は緊急時は鉄道橋として再使用できる状態を保ちつつ平時は人道橋として利用されることとなった。