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朝鮮京東鉄道 水麗線
水原ー新葛
新葛−龍仁
水麗線
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朝鮮鉄道略図
廃線跡・鉄道史跡
水麗線 略歴
京釡・京義・安奉経由
欧亜連絡
水原−新葛 調査年月日 1990.05.05   
 水原駅の列車用駅舎の裏の屋根の無い引き込み線のようなところから水仁線の列車が発車している(写真:上)。そして昔は水驪線の列車もここから発車していた。水原駅本駅に入っていないのは解放前まで私設鐵道であった名残であろう。水仁線が水原駅をでて少しすると大通りを越える。この辺りで水驪線は左へ別れていたはずである。ちょうどそこには細い道路が水仁線から岐れて行くので、それが水驪線の跡だと思われる。その道に沿って左にカーブしながら進むと、数百メートルで右から来る崩されかかった築堤の跡と合流する。この築堤の跡は水仁線と水驪線を結んでいた三角線の跡である。この三角線は水仁線が京釜線をオーバークロスするための大きなカーブの途中(写真:中)と、水驪線が本水原へ向けてのカーブが終わるところを結んでいた。三角線と合流した水驪線は築堤の上にコンクリートを搭せた形の道路に変わり水原川近くまで続いていた。しかし水原川の橋梁跡は何も見付けることはできなった。この川を渡るとすぐに本水原駅(後の華城駅)があったずだが、この辺りは李朝時代の城郭都市の中心地、つまり旧市街に近いために住宅が密集していたり、華城市場という大きな市場があって思うように調査が出来なかった。更にこの後、私は道を勘違いして元の位置に戻るまでに約2時間のロスをしてしまった。何とも情けないことである。元の位置に戻り更に廃線跡を歩き始めたが、しばらくのあいだ遠川遊園地の辺りまでは廃線跡は見付けられなかった。遠川駅も同様である。私が歩いたのが5月5日で、韓國でも子供の日の祝日のために遠川遊園地は物凄い混雑であった。遊園地を過ぎて遠川橋を渡ると国道から左へ別れる泥道を見付けた(写真:下)。もちろん水驪線跡である。ここから新葛まで約5kmは国道から離れて山を巡回することになる。廃線跡は泥道として続き、途中の徳谷駅はその道の脇に用地の広がりが在るだけで跡形はなかった。徳谷駅を過ぎて1km程進むとトンネルがあったはずであるが、ここは新規にレジャー施設の開発が進行中であり、工事によってトンネルのあったところまで立ち入ることが出来なかった。仕方なく少しだけ道を戻って山の上に出来たゴルフ場の中の私道を通って山の反対側まで行った。しかし残念なことに反対側のトンネル入り口も埋められていた。埋められたトンネルから続く道床跡の泥道を廃線跡特有の曲線を感じながら歩くと前方に京釜高速道路が見えてきた。高速道路の下をくぐって新葛の街へ入ると旧線跡は町中の道路となって鉄道の面影は薄くなった。そして新葛駅は街の東の外れにあったはずであるが、確かな駅跡の証拠を見付けることは出来なかった。


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