東海北部線 (襄陽 ‐ 洛山寺) 1990.4.30
駅跡から続く築堤を歩いていると先程の老人と他の数人が築堤の上で一服していた。軽く会釈すると一緒に座って一服しようとお誘いを受けた。自家製のキムチと焼酎を勧められてご馳走になりながら、わたしの今回の韓國旅行の目的を話すと、この鉄道は日本人が作った鉄道だから、わたしがここに興味をもつことはたいへん良いことだといってくれた。そして、一緒に一服していたもうひとりの老人はむかし東海北部線の機関士で、今は北側になっている高城まで何度も往復したことを話してくれた。当時は元山に機関区、高城に機関区分区があったようなので、東海北部線の受け持ちは高城を境としてそれぞれが分担していたのだろう。先の予定があるので、話も程々に失礼して先に進んだ。
橋台の残る小さな川を渡って、築堤は右に軽くカーブし更に左にカーブして国道と離れて山のなかに入って行く。ここから旧洛山寺駅まで約5kmは国道から離れた位置を通っている。旧線跡は緩やかな丘のなかに細長く開けた田圃にそって進んでいく。そして丘が切れ小さな川が現われると、それを渡っていた橋の橋台とその先に築堤のカーブが続いていた。襄陽邑から降(山見)面へ変わり、右手に海岸線まで田圃が開け、その先には国道を眺めることが出来る。左手の丘が切れるとまた小川を渡る橋台の跡が現われ築堤は切り取りに変わり丘を抜けて行く。この切り取りのなか土砂防止保安林の表示板があった文字はハングル文字であったがおそらくは鉄道時代、日本の手によって作られた保安林であろう。
この辺りでは田畑を耕すのに牛を使っている。のどかな田舎の風景、日本ではかなり昔にこのような光景は見られなくなってしまった。その牛がこの築堤の脇で休んでいた。ここを汽車が走っていたときからそうかわりのない光景だろう。もっともその頃はのどかな時代ではなかっただろうが。築堤がコンクリートの橋で小川を渡り切り取りを抜けると、目の前に青く美しい海が現われた。東海(日本海)である。左へカーブして海岸線と平行に進路を変えた築堤は右下に見える国道と同じ高さになるまで勾配を下りはじめた。旧洛山寺駅までの直線区間で犬釘を見付けた。何の変哲もない犬釘だが廃線跡で見付けたときのうれしさはわかってもらえるだろうか。そしてそのすぐそばに洛山寺駅の跡があった。路盤に続く広場のなかにホームが残っていたその敷地の一角で、アジュマ(おばさん)がキムチ用の白菜を洗っていた。