本州の西の端の下関は戦前は最も重要な港であり、対岸の門司と合わせた関門地域は世界各国に航路の開かれた場所であった。下関の鉄道桟橋からは関釜連絡船が1日2便、朝鮮・満州・中国・シベリア・ヨーロッパへの陸路による国際ルートを提供し、更に下関税関桟橋からは釜山からの便の悪い全羅南道への地域連絡として関麗航路(麗水)が毎日、満鉄連絡の北鮮急航航路(清津・羅津・雄基)が週1〜2便出航していた。
対岸の門司では、日満航路(大連)、華北航路(天津・青島)、華中航路(上海)、台湾航路(基隆)、東南アジア航路、インド航路、南米航路、欧州航路の大型貨客船が寄航していた。昭和6年に外国貿易岸壁が竣工し、日満航路の定期船の使用が始まった。しかしすべての船舶が岸壁発着ではなく沖繋もあった。
この外国貿易岸壁はここ数年の埋め立てで海岸が少し遠ざかってしまったものの「旅具検査場」と「待合場」の文字が鮮やかに残っている船客待合場の建物と引き込み線の線路の一部、そして係船杭が残っている。