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欧亜大陸への国際幹線
京釜線 韓国の大動脈

 京釜線は韓国の首都ソウルと第二の都市釜山を結ぶ大動脈として今でも最も重要な路線である。しかしこの京釜線の建設された当時は若干その意味合いが異なっていた。大陸の玄関口としての釜山から首府京城(ソウル)を経由して中国大陸への鉄道、日本による朝鮮半島そして中国大陸への侵略の為の輸送手段、それが当時の目的であり役割であった。その大動脈の南半分は京釜線(京城−釜山)、北半分は京義線(京城−新義州)であった。その京釜線は日韓併合よりもかなり前、日本の資本によって京釜鉄道の名で建設が開始された。
 京釜鉄道の建設が認可された1890年代は日本とロシアが朝鮮半島ならびに満洲の権益をめぐって対立が激しくなって行きつつある時代であった。その頃、ロシアはシベリア進出の為にシベリア鉄道の建設を開始した。それは1891(明治24)年にはウラジオストックから、そして1892(明治25)年にはシベリア西端のチェリアビンスクから始まった。そして難工事の為に完成の遅れたアムール川沿いの現在線に代わって満洲北部を横断する東清鉄道を介したルートでの全線の開業は1903(明治36年)であった。ロシアによるシベリア鉄道の建設に恐怖を感じた日本帝国は朝鮮半島における日本の優位性を確立するためには釜山から新義州(韓中国境)へ至る鉄道の建設が必要であると考えるようになった。
改良工事
  区間   粁程 工事完成年月   主改良点
   清道−大邱     1923(大正12)年5月  新省ケン隧道(勾配緩和)、清道付近勾配緩和
   大邱−若木 12.5 1916(大正 5)年2月  新倭舘洛東江橋梁(曲線緩和)
   若木−金泉 35.8 1916(大正 5)年11月 金烏山北廻線(勾配緩和)
   金泉−永同 38.2 1919(大正 8)年6月  太平隧道(勾配緩和)、新岩隧道(勾配緩和)
   永同−沃川 20.9 1919(大正 8)年12月 馬山隧道(勾配緩和)、加里隧道(勾配緩和)、
                             道徳峰南廻線(勾配、曲線緩和)
   沃川−大田 14.7 1919(大正 8)年12月 増若隧道(勾配、曲線緩和)
   大田−芙江 21.6 1916(大正 5)年2月  懐徳付近勾配緩和
複線化工事
また第二次世界大戦が終末に近付いてきた頃、激増する輸送需要を捌くために、京釜線は京義線と共に1945(昭和20)年迄に複線化された。
     区 間    粁程  開通年月
   釜 山 − 釜山鎮  2.9 1918(大正 7)年6月
   釜山鎮− 三浪津  46.3 1940(昭和15)年4月
   三浪津− 大 田 234.0 1945(昭和20)年3月 (密陽-楡川新線建設)
   大 田 − 永登浦 158.1 1939(昭和14)年6月
   永登浦− 京 城   9.2 1944(昭和19)年8月 (京仁線と共に4線)
昭和20年の日本の敗戦とともに日本軍の武装解除のために進駐した米ソ両軍によって朝鮮半島は南北に分断された。それ以降、京釜線は朝鮮半島縦断の大動脈としての機能は失われてしまった
京釡本線案内
京釡本線略歴
京釜鉄道の敷設権をめぐっては当時政権を握っていた李太王妃閔妃(親露派)の暗殺(1895(明治28))を引き起こすなど困難をきわめたが、1898(明治31)年になってやっと正式に敷設権が韓国政府から日本に許可された。1901(明治34)年京釜鉄道株式会社の設立そして着工がなされた。
建設工事は1901(明治34)年北部の永登浦、南部の草梁から着工された。しかし種々の難問のため工事の進捗状況は芳しくなく、日露開戦の前年の1903(明治36)年、両国間の開戦が避けられないことを悟った日本帝国政府は作戦遂行の為に京釜鉄道速成命令を発して工事を急がせた。速成命令によって工事着工がなされた区間は南省(山見)−芙江(194.7km)であった。 そうして永登浦-草梁間の開通が1905(明治38)年1月1日であった。残り区間の草梁−釜山間は1908(明治41)年4月に開通した。
 速成工事命令で建設された南省(山見)−芙江間に存在した仮線区間の貧弱な路線は順次本線のトンネル、橋梁の完成によって改良されていったが、それでも最急勾配20/1000、最小曲線半径300mの区間が多く存在して国際連絡鉄道としての大輸送量を捌く為にはさらなる改良工事が必要になってきた。そのため大正時代にそれらの区間の工事が行なわれた。
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京釜・京義・安奉経由
朝鮮鉄道略図
京釡・京義・安奉経由
欧亜連絡
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