広大里駅跡を過ぎると旧線の低い築堤は左に曲り鐵道時代の橋桁の上にコンクリートを搭せた橋(写真:上)を渡った後、コンクリートの舗装道路になった(写真:中)。この道が左にカーブして岩の中の切り取りを越えると驪州へ向う地方道と交差した。そしてここからは基本的にはこの地方道に沿って驪州まで行くことになる。地方道と交差した周辺の数百メートルは地方道が旧線の敷地を使って拡張されているようであったが、すぐに地方道の右に旧線跡が現われた。ちょうどその辺りに新岱駅(後の煙羅駅)があった。ここには敷地の広がりがあって駅の存在したことを示していた(写真:下)。
その駅跡から旧線の築堤が再び田圃のなかに現われ途切れずに続いている。驪州市街への進入は先程の地方道とは離れたルートを通っていた。鐵道時代の橋脚を利用したコンクリートで出来た橋を渡って市街部に進入した旧線跡の道路は部分的には空き地となっていたが、ほとんどは生活道路となっていて鐵道時代の面影は少なくなっていた。そして終着駅の驪州駅跡は驪州郡民会館の近代的な建物が建っていて(写真28)、駅の跡形はなかった。
水原から驪州まで73.4kmの水驪線を5日間かけて歩いた。区間の順序と歩いた方向はまちまちであったが、ここでは水原から驪州へ向う形でレポートとした。随分と時間がかかってしまったが、鐵道時代もかなりの時間がかかっていたようである。昭和9年12月時刻表によれば2時間20分かかっていた。そして戦時体制の昭和19年になると4時間30分もかかっている。表定速度にして16.3km/hである。歩く速度の4倍程しかなかったのである。廃止直前はもう少しは速かったと思うが、現在の直行バスは(停車駅は鉄道よりは若干少ないが)この区間を1時間30分で走る。現在の交通事情にマッチしないのはナロー鉄道の宿命であるかもしれない。そのために大きな赤字を抱えて1972年3月31日廃止された。18年前の廃線跡にしてはかなりの部分が現在まで残されていると思った。