a125007.jpg
a125006.jpg
a125005.jpg
a125004.jpg
a125003.gif
a002012.gif
a002012.gif
太平洋横断航空路(1)
太平洋横断航空路
パン・アメリカン航空(Pan American World Airlines)によって1935年太平洋横断航空路が開かれた。これはサンフランシスコ-マニラ間の運行で日本への乗り入れはなく、依然として海路が日米間連絡の唯一の方法であった。羽田飛行場への定期乗り入れは、戦後の1947年、ノースウエスト・オリエント航空(Northwest Orient Airlines)のシアトル-東京線が最初で、伝統のパンナムもこれに続いた。さらに、カナディアンパシフィック航空(Canadian Pacific Airlines)が1949年に東京-バンクーバー間に路線を開設、1954(昭和29)年には日本航空もホノルル経由サンフランシスコ行を開設した。
 
列強の南方圏航空事業の展開
パン・アメリカン航空が1935年サンフランシスコ-マニラ間(ハワイ、ミッドウェイ、ウェーク、グアム経由)にマーチンM-130飛行艇を使用しての定期便を就航させた。1939年には大型のボーイング314型飛行艇が就航した。M-130の最大43席(寝台仕様18席)に対して、B314は最大74席(寝台仕様50席)であった。巡航速度は290km/h程度であったので、昼間飛んで夜は洋上に停泊して「浮かぶホテル」になり、翌朝ふたたび飛行を開始するのが飛行艇の特徴であった。太平洋線の終点マニラからは、シコルスキーS-42が香港・シンガポールを結んでいた。しかし、日米間のこの海域での緊張時代に入って、空と海そして島を結んでの運行は困難となり、ハワイ折り返しに縮小されて運行も海軍管理下におかれた。第二次世界大戦後、戦中に急速に進んだ航空機技術と拡大した生産能力を生かしての商業用4発機の発達により飛行艇はこれに置き換えられた。
また、列強の植民地が集中する太平洋地域には各国の航空路が集散していた。ジャワ島を中心とする蘭領印度へはオランダ王国航空会社(Koninklijke Luchtvoart Mij - KLM)が路線をもち、1924年アムステルダム-バタビア間を開設し、1937年には週3往復に成長した。使用機はDC-3、1万4千キロあまりを6日を要して飛行した。姉妹会社の蘭領印度航空会社(Koninklijke Nederlandsche Ind Luchtvoart Mij - KNILM)は1928年にシンガポール-シドニー線、サイゴン-シンガポール-バタビア線を開設して王国航空と連絡し、1940年にはボルネオ-マニラ線の運行でパン・アメリカンとの連絡を開始した。
仏領印度支那(ベトナム)へのフランス系の路線では、1926年連合航空会社(Air Union)のマルセイユ-サイゴン間の航空郵便試験、1929年の亜細亜航空会社(Air Asie)のパリ-サイゴン間の月二運行試験を経て、1931年に二社合併のフランス東洋航空会社(Compagnie Francaisa and Air-Orion)がマルセイユ-サイゴン間に定期航空路を開設した。
1933年には25%政府出資のフランス航空会社(Air France)が誕生して、以降はフランス系唯一の航空会社として植民地を結んだ。1935年にはハノイ-ヴィエンチャーヌ-バンコックが開設され、1937年にはボテ621からドヴォアチーヌ388に使用機が変更されて、マルセイユ-ハノイ間は従来の7日半を5日半に短縮された。1938年には香港まで延長され、マルセイユ-香港間14625キロを毎週2往復飛んだ。しかし、欧州大戦にてフランスの敗戦により運行は停止された。
1826年以来英国植民地であったマラッカ、ペナン、シンガポールへは英国のインペリアル航空会社(Imperial Airways)が1926年にカイロ-バスラ間を開き、1929年にはロンドン-カラチ間の定期航空路になった。1933年には印度大陸横断航空会社(Indian Transcontinental Airways)がカラチ-カルカッタ-ラング−ン-シンガポール間の定期航空路を開設して、ロンドン-シンガポール間の空路による連絡が実現した。1936年にはインペリアル航空会社は英国航空会社(British Airways)を吸収して国営の英国海外航空(British Orverseas Airways Company - BOAC)となった。サウザンプトン-シンガポール間は大型飛行挺のエムパイヤ、バンコック-香港間は陸上機が使用されていた。1940年のイタリアの参戦、フランスの敗戦による日本軍の仏領印度支那への進駐に伴い、バンコック-香港線は廃止された。また、同じ英国系のカンタス・エンパイヤ航空会社(Quantas Empire Airways)は、英国王室航空とカンタス航空の出資により設立され、1934年からシドニー-シンガポール間の定期航空路の開通となった。この地域を守備していた英国軍は1942年降伏し、シンガポールは昭南島と改名されて日本の占領下におかれると、従来の路線は路線の変更を余儀なくされた。
 
太平洋横断航空路(2)
マーチンM130
ボーイング B314
ボーイング B307
ダグラス DC4
北米大陸
太平洋横断航空路(3)
a125002.gif
a125001.gif
a015001.gif