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沃川−大田  
沃川を出発した列車は周囲を滑らかな山に囲まれた浅い谷を全羅道への分岐点で交通の要衝である大田へと向っていく。大田は周りを朝鮮半島の特徴である低く滑らかな老年期山地によって囲まれた盆地の中の都市で、現在ではその盆地一体に市街部が拡大している。京釜線はその東から山を越えて大田に進入し、北に流れて錦江に注ぐ甲川に沿った僅かな平地をソウルへと向っていく。湖南線はこの盆地から甲川に沿った低部を選んで曲がりくねりながら南西に全羅道を目指す。釜山からの京釜線が大田に入るために越えるトンネルは1919(大正8)年に完成して旧線から列車を引き受けたものである。増若トンネルと名付 けられたそのトンネルの入口を乗り越すようにして大田に向う国道4号は旧線の一部を使っている。かつての京釜線はここを等高線に沿った急曲線と三つの短いトンネルを使って現京釜線の細川駅に至っていた。トンネルは沃川側から第一増若・第二増若・第三増若隧道と呼ばれた。第一増若はその洞口の一つ細川駅寄りのものが国道の斜め下右側にひっそりと残されていた。そしてそれから続く旧線の切取の高さまで国道が勾配を下り、その国道と交差するように旧線が左手に移ると、山の斜面に閉鎖された穴の跡が認められた。第二増若隧道の跡である。しかしこのトンネルの洞口はほんの一部分を残して崩されており穴の跡だけが残っていた。旧線は更に第三増若隧道を抜けて細川駅に進入していたがその細川駅付近の僅かな区間の旧線は石材採取用引き込み線として残っていた。この旧線建設当時、堅牢な岩盤を掘りぬかなくてはならなかった第二増若と第三増若は完成か遅れスイッチバックの仮線が設けられていた。細川駅からの旧線は途中に230m程の九丁里隧道を抜けて大田駅へと進んでいた。この跡は現在は国道4号線に姿を変えている。この区間も途中にあった勾配を緩和するために現在の経路に変更されたのである。1919(大正8)年のこと であった。
大田−芙江
 大田を出て昭和12年から貨車を捌いてきた大田操車場を過ぎた辺りでまた大正時代の線路付け替え区間に出会う。またしても国道4号になった旧線は2km程して現在線に合流し て新灘津駅に向う。この短い区間にかつての鉄道跡の面影の存在は望めないだろう。新灘津の先で錦江を渡った京釜線はまた1916(大正5)年の新線区間になる。旧線は今は道路にな っている。そして梅浦駅の手前で速成線と大正5年の新線はS字を描いて駅に進入していた。複線化の際にそのS字カーブは直線に改良され、その区間に旧線の橋台と橋脚が残っている。これは京釜線の列車の中からも容易に確認できる。
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京釡線 
沃川ー大田間
鷺梁津
伊院
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第一増若トンネル
第二増若トンネル
左が旧本線
第一
第二
第三
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朝鮮鉄道略図
廃線跡・鉄道史跡
京釡本線案内
京釡・京義・安奉経由
欧亜連絡
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