京釡・京義・安奉経由
京釡・京義・安奉経由 欧亜連絡
東京から汽車で下関に至り、連絡船で釜山へ渡る経路は、山陽鉄道が関釜航路を開設した1905(明治38)年から、大陸への最も重要な経路として発展してきた。朝鮮半島においては、日露戦争直後の1906(明治39)年の新義州までの開通と、南満州鉄道がその誕生とともに軍部から受け継いだ安奉軍用軽便鉄道の民間転用により、主要経路である京釡・京義・安奉線の旅客輸送が1907(明治40)年から、更に1911年(明治44)年には鴨緑江にかかる国際鉄橋と、安奉線の標準軌間改良線が開通して直通運転が開始された。
年々増加する輸送物資に対応するための、複線化の完成は、京釡(1945年3月)・京義(1945年6月)・安奉線(1944年9月)であったが、バイパス線としての京慶線(いまの中央線)が(釜山−)永川−清凉里間に昭和17年全通し、平壌から満浦・集安で鴨緑江を渡る満浦・梅集線経路も、1939(昭和14)年営業を開始している。その他、京城から京元・咸鏡線を経て、或いは敦賀・新潟からの北鮮航路から清津・羅津・雄基の北鮮三港から豆満江を越える経路、またこれに連結する目的で釜山からの東海線が建設され始めていた。
慶全線
満浦本線
元山
大田