1901年にロシアが開通させた東清鉄道は満州北部の物流を牛耳り、とくに農産物の搬出は東清鉄道経由、ウラジオストックが玄関口となっていた。日露戦争に敗北して東清鉄道の長春以南が日本の南満州鉄道となった後、本来のアムール川沿いのシベリア鉄道本線が開通した1916年以降、そして、満州国が設立された1932年以降も新京以北はソ連経営の鉄道として残されていた。満州全土を完全に手中に収めようとする満州国はウラジオストックに代わる港町を北鮮三港(清津、羅津、雄基)に定め、ここを起点とする東清鉄道に平行する線(京図線−昭和8年全通)、そして、東満州に到達する線(拉賓線-昭和9年全通、図佳線−昭和8-10年開通)を建設して物流を変化させ、北満鉄路を接収することに成功した(昭和10年)。
この間に、京城からの京元・咸鏡線が昭和2年に会寧までの全線開通、会寧−潼関鎮の図們鉄道線を買収、図們線の雄基−南陽−潼関鎮の昭和8年開通、南陽−図們国際鉄橋の昭和8年の開通を以って、この地帯は交通の要衝となっていった。敦賀新潟航路を併せて日本海中心時代がやって来たのである。
昭和8年には、新京−羅津には各等急行”あさひ”、京城−会寧(後に羅津)に2・3等急行列車が設定され、15年には京城からの急行を図佳線経由牡丹江に延長、また図佳線終点の佳木斯へは羅津から各等直通列車が運転されるようになった。