浦塩航路から北鮮航路へ
明治35(1902)年に敦賀−ウラジオストック間の定期航路が大家汽船によって開設され、露国義勇艦隊も1907年に同区間の航路を開設した。大家汽船の航路はその後大阪商船、北日本汽船と引き継がれていく。これらの航路は、ロシア革命の勃発(1917年)とくにシベリア撤兵(1922年)以降の衰退、昭和2(1927)年の日ソ通商条約締結で再びシベリア経由旅客の増加と経て、満州国の設立(1932)と日ソ間の緊張の高まりなどから、ウラジオストック航路主体から北鮮航路主体に変化していく。
敦賀−浦塩線は昭和4年大阪商船から北日本汽船が引き継いで、「天草丸(2341総トン)」と「嘉義丸」をもって1週2回の定期としたが、翌年には天草丸のみの週1回定期となった。昭和8年には月3回とし、昭和9年には北鮮雄基清津に寄航となった。昭和10年からは使用船を「さいべりあ丸」として設備改善し、昭和14年からは「はるびん丸」が就航、さいべりあ丸」は新潟に回った。
京図線・図佳線の開通、北満鉄路の接収により、満州北部・東部の物資が北鮮三港に積み出されるようになり、僅かな貨物郵便物、外交関係そのた特殊事情の人々の往来にのみ利用されるようになっていったが、国策的見地から航路の維持がなされている。昭和15年には国策会社日本海汽船が誕生して航路が引き継がれている。10日に1回の運航