延吉
延吉駅
上・右:2002年10月撮影
右下:戦前の様子 <満州慕情 満史会編 昭和46年発行>より
中:戦後の様子 <中国鉄道の旅 中国鉄道出版社+美乃美 1981年発行> より
京図線は、新京(長春)-吉林間の吉長鉄路、吉林−敦化間の吉敦鉄路、敦化−図們の敦図線の3区間で建設されてきた、吉長鉄路は清国政府によって建設が開始され、民国元年(大正元年、1912年)に開通、吉敦鉄路は満鉄が中華民国政府との条約を締結して建設を行い、昭和3年(民国17年、1928年)に開通させている。敦図線は満州国の設立後、日満の連絡をを目的として建設が開始され、大同2年(昭和8年、1934年)4月20日までに老頭溝までの区間を仮開業し、天図線(老頭溝−朝陽川-延吉・開山屯、天図軽便鉄路を大同2年2月9日国有化)と連絡して、その直後の 5月15日 には、老頭溝−図們間が仮開業し、軽便路線は廃止されている。大同2年9月1日、吉長・吉敦・敦図の3路線は統合されて、京図線として正式開業した。
間島地区は、1909年の間島協約が結ばれて初めて清国の領土とされたもともと清韓間の国境があいまいな地域で、多くの朝鮮人が居住していた。延吉はその中で中国側の中心地として栄え、満州国時代には、間島省政府が置かれていた。大同12年(昭和18年)4月1日には、駅名が「間島」に変更されている。
延辺朝鮮族自治州政府
満州国時代の間島省政府がおかれた建物で、満州国時代によく見られる定冠建築の様式でたれられている。(2002年10月撮影)
京図線と延吉