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下関港     
 関麗航路が朝鮮総督府命令航路に指定された昭和9年4月、港町28番地に出張所が開設され南朝鮮鉄道下関港駅と呼ばれていたが、南朝鮮鉄道が朝鮮総督府に買収されると関麗下関港駅と改称された。また下関港駅という名前は関門隧道開通前の山陽本線に、貨物駅として現在の関門渡船の唐戸桟橋付近に存在していた(昭9/6/11−昭17/7/1)が、下関駅の移転と共に廃止され側線となり(昭和50年の地形図にはまだその記されている)、現在はその側線もなくなってしまった。鉄道省下関港駅に対して南鉄(関麗)下関港駅と呼ばれていたわけである。南鉄下関港駅の位置には鉄道の駅はなかったので現在は全く跡形もなく臨港倉庫があるのみである。

関麗連絡船と南朝鮮鉄道
下関
半島南部の鉄道
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関麗航路と南朝鮮鉄道(2)          
 昭和5年12月20日、川崎汽船は関麗航路を開設した。南朝鮮鉄道と連帯契約を結んでのことである。12月25日には連帯相手の南朝鮮鉄道が麗水−光州間を開通させた。もともと川崎汽船は川崎造船所の自社建造船の運航組織を前身として、第一次世界大戦後の大正8 年に設立された会社で、貨物船だけの運航を行なっていたので、関麗航路は初めての貨客船航路であった。 昌福丸と慶運丸(用船)の2隻が最初の船舶として両港発の毎日運航を始めた。昭和9年4月には航路の重要性が認められて朝鮮総督府の命令航路となり、朝博丸でこれにあたった。昭和10年からはこの航路から離れていた昌福丸が戻り、自社船2隻体制となって下関麗水発双方の午後5時が確保された。昭和11年3月朝鮮総督府による南朝鮮鉄道の買収と関麗航路の命令船の2隻化に伴い、昌寿丸を加えた自社船3隻体制として朝博丸を予備船とした。同年12月16日には南原−順天間の開通を以て全通した慶全北部線は同時に慶全西部線の一部分であった麗水港−順天間を包含して麗水港−裡里間の全羅線として慶全線グループから独立した。
麗水港        
 南朝鮮鉄道が開通した当初の麗水駅は後に麗水港駅と改称され、関麗航路の到着埠頭のすぐ近くの、現在の麗水駅からは0.3kmの所にあった。現在の全羅線の旅客列車はかつての麗水港駅に発着するものはないがレールはまだ健在で、しかも麗水港守衛所のすぐそばには今も当時の旅客列車用の高さの低いホームが残されていた。
 当時の関麗航路と同じ港から国際航路である博麗フェリーが1990年4月開設されたが、1992年には赤字廃止されてしまった。戦前の関麗航路は開設以来赤字を10年間辛抱して、黒字経営に移ったが、戦後の博麗航路も経営が辛かったようである。 
このことは全羅線を介して京城方面と短絡が実現されたことを意味し、関麗航路は更に重要性を増してきた。しかし太平洋戦争の激化はこの航路にも重くのしかかってきた。昭和20年5月には関門海峡の運航困難によって日本側の港を吉見、仙崎、博多と移動して同年8月にはとうとう休航になってしまった。
廃線跡・鉄道史跡
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川崎汽船
昌福丸 2563総d 1918年建造 1934年より関麗航路に就航。(川崎汽船50年史より )
半島南部の交通
朝鮮鉄道略図
欧亜連絡
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南朝鮮鉄道・川崎汽船ポスター(横浜マリタイムミュージアム図録より)
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川崎汽船
下関事務所、南鉄下関港駅と呼ばれた。。(川崎汽船50年史より )
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