慶全線グループ
全羅北道では中心地全州と湖南線裡里駅そして群山線を介して群山の港に連絡する鉄道として全北軽便鉄道が大正3年11月17日開通した。昭和2年10月1日には国有化され、慶全北部線の一部として昭和4年9月20日改軌された。
昭和のはじめ、すでに鉄道の開通していた全州・潭陽・順天・晋州を結ぶための鉄道が計画され、全州−順天間は慶全北部線、順天−晋州間を慶全南部線、金池−潭陽間を慶全支線とした。
慶全北部線はその後、全州−(昭和6年10月1日)−南原−(昭和8年10月15日)−谷城−(昭和11年12月16日)−順天と延長して南朝鮮鉄道を買収した慶全西部線の一部の麗水−順天を包含して全羅線となった。
一方、全羅南道の中心地光州はかつては2つの南朝鮮鉄道線の分岐点であった。とはいってもこの2つは同じ会社ではない。そして同時に存在してはいなかったのである。最初の南朝鮮鉄道線は、湖南線松汀里駅を起点として、光州−潭陽−院村−河東−晋州を経て国鉄馬山線に連結する本線と途中院村で分岐して全州にいたる支線を計画していた。
会社はその東西両方から建設を開始して、その西側松汀里−光州を大正11年7月1日、光州−潭陽を大正11年12月1日開通した。東側では馬山−郡北を大正12年12月1日、郡北−晋州を大正14年6月15日に開通した。前者が昭和3年1月1日国有化後の光州線であり、後者が昭和6年4月1日国有化後の慶全南部線である。そして後の方の南朝鮮鉄道は麗水を起点として下関からの川崎汽船の関麗航路を介して日本本土と連絡し光州までを昭和5年12月25日開通
した鉄道会社である。こちらは昭和11年3月1日に国有化されて慶全西部線となった。最初の南朝鮮鉄道の区間の光州−潭陽は後に開業した第2の南朝鮮鉄道線が買収されると、そちらを経由しての現在の慶全線ルートを本線に回して支線に成り下がった。この支線はしかし全羅道の南北それぞれの中心都市である光州と全州を結ぶ為の重要な路線の一部として利用されることとなり、潭陽から先へ全羅線の金池駅までの建設が開始された。昭和17年までにこの区間の路盤の全ては完成されたが、戦争中の物資困窮はこの路線の開業を困難にした。そればかりか、既開業区間の光州−潭陽のレールまでも奪ってしまった。(1944(昭和19)年10月30日営業休止)