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関釜連絡船 1
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 1906(明治39)年、京城から中国国境の鴨緑江岸の新義州までの軍用鉄道だった京義線が旅客輸送を開始し、1911年11月には安東−奉天間の軍用軽便鉄道だった安奉線が奉天付近で撫順線を利用した仮線ではあったが全線標準軌に改築された。それと同時に鴨緑江橋梁が完成して釜山から奉天までの直通列車が誕生した。翌1912年からは直通列車は長春まで延長され、内地では新橋−下関間に1・2等特別急行列車が誕生して内地・朝鮮 ・満洲相互間の連絡輸送が確立した。これに連動して輸送力増強の為に関釜連絡船にも大型新造船が投入されることになり、高麗丸(3028総屯)、新羅丸(3020総屯)が1913年に就航した。当時関釜連絡船は昼と夜の2便が運航されていたが夜行便に旅客が集中したためにこれらの船は夜行便専用となった。高麗丸は1931年稚泊航路に移ったが、1933年北日本汽船に売却され満洲丸として敦賀−清津・羅津・雄基(北朝鮮)に就航、1938年からは北鮮航路の中心が新潟に移ったことにより敦賀を新潟にかえた。この船の終末は1944年雷撃による沈没である。新羅丸は1937年貨物船に改造され、1942年からは青函航路で活躍した。終末は1945年の触雷沈没である。
関釜連絡船 2
廃線跡・鉄道史跡
京釡本線案内
欧亜連絡
日本の玄関
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↑山陽鉄道 関釜連絡船案内 明治27年時刻表
←←壱岐丸 絵葉書
←壱岐丸号鐘 交通博物館 
←↑高麗丸 下関 絵戦前絵葉書より
↑→高麗丸 釜山桟橋駅船車連絡 
    戦前絵葉書より
  ↑満州丸時代 北日本 昭和13年より
 
 
朝鮮鉄道略図
京釡・京義・安奉経由
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関釜連絡船 2
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 最初の連絡船は壱岐丸(1680総屯)、対馬丸(1679総屯)であった。これらの船は山陽鉄道によって建造され1905年から投入された。その後、壱岐丸は1922年に青函航路、1924年からは稚泊航路に渡った。このとき船体は砕氷型に改造され外観が大きく変わっている。1932年には大阪商船、1937年、北日本汽船に移り樺太丸を名乗って稚内−本斗間の樺太航路に就航した。第二次大戦後は国鉄に用船され青函航路に使用され1950年に解体された。同僚の対馬丸はやはり1923年に稚泊航路に移り、1925(大正14)年座礁して果てた。
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