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日韓併合以降増加し続ける輸送需要に対して鉄道省は民間からの用船でまかなってきたが、「自船自営」として1922-1923年に景福丸(3620総屯)、徳寿丸(3620総屯)、昌景丸(3620総屯)が就航した。この航路初の客船(貨客船ではない)で昼夜便兼用型の高速船であった。その後、徳寿丸と昌景丸は関釜航路の補助航路として1943年に開設された博釜航路に移った。これらの3隻の姉妹船は戦後まで生き残り、青函航路で洞爺丸型が軌道に乗る1949年まで働いた。また徳寿丸は洞爺丸事故直後から十和田丸Tの就航まで再び青函航路を助けた(1954-1957)。これら姉妹は太平洋戦争を生きぬき寿命を全うして最期は売却解体された。(景福丸:1958年、徳寿丸・昌景丸:1961年)

朝鮮半島の鉄道は中国・シベリア・ヨーロッパにも連絡し、多くの外国人が関釜航路を介して日本を訪れるようになった。このため関釜連絡船にも日本の玄関口として相応しい優秀船が求められ、1936(昭和11)年金剛丸(7081総屯)がそして1937(昭和12)年興安丸(7079総屯)が就航した。鉄道連絡船としては群を抜く7000屯級の大きさと流れるようなデザインの船体をもつこの船は玄界灘の女王と云われた。また、興安丸は戦後下関桟橋に係船中にまたとない栄誉を与えられた。それは昭和22年9月2日、昭和天皇陛下の山陰御巡幸の際の御宿所となったことである。陛下のお泊りになった特別室はもともと皇族用の貴賓室としてデザインされていた。これは興安丸の豪華さの一つのあらわれである。陛下はこの後12日朝東京着の、最初で最後の夜行お召列車で御帰京なされた。その後、興安丸はその後中国やソ連からの引揚船として大活躍したが、1958(昭和33)年東洋郵船の手にわたりインドネシア巡礼船となった。東洋郵船の会社体質の悪さからか、さした活躍もさせてもらえず、多くの引き揚げ体験者たちの永久保存の声も無視され1970(昭和45)年解体されてしまった。ただ救いなのは錨の一つが解体が行なわれた三原市に、もう一つの錨とコンパスが下関市に、号鍾が交通博物館に保存されていることである。同僚の金剛丸は1951(昭和26)年座礁し2年後解体されてしまった。  関釜連絡船最後の船となったのは天山丸(7906総屯)と崑崙丸(7908総屯)であった。スタイルは金剛丸型とほぼ同じで一回り大きな船体をもつスマートな船であったが、戦時色が濃くなってきた1942(昭和17)年の完成だったので船体は連絡船標準色には塗られず、灰色一色の戦時警戒色での誕生であった。天山丸は1945(昭和20)年米戦闘機による攻撃で炎上沈没、崑崙丸は竣工半年目にして雷撃により沈没してしまった。短命な不運の姉妹であった。
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興安丸 絵葉書 戦前↑ 
     戦後 東洋郵船時代 ↓
 
関釜連絡船 2
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景福丸←↓ 徳寿丸↑ 昌慶丸→  絵葉書
 
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興安丸号鐘
交通博物館 
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関釜連絡船 1
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日本の玄関
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