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欧亜連絡
日本の玄関
シベリア鉄道
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ザバイカル鉄道
アムール鉄道
ウスリー鉄道
東清鉄道
1885年11月、カナダ太平洋鉄道が全通し、大西洋と太平洋そして北米大陸が大英帝国経営の船舶鉄道によって結ばれた。これに刺激をうけたロシアは1857年以来提案却下が繰り返されていたシベリア横断鉄道の建設を本格的に開始することを決めた。当時のロシア皇帝アレキサンドル2世は皇太子ニコライを東の起点ウラジオストックに送って1891年5月31日、起工式が行われた。ニコライはそのとき日本を訪れ大津事件に巻き込まれている。既にペテルブルグからの鉄道が開通していたチェリャビンスクから東へ向けて鉄道建設が始まったのが1892年7月19日、ノボシビルスクまでの西シベリア鉄道は1895年、更にイルクーツクまでの中部シベリア鉄道は1898年、1900年にはスレチェンスクまでのザバイカル鉄道が開通している。東からはウラジオストック−ハバロフスク間のウスリー鉄道が1897年に開通している。
西シベリア鉄道
中部シベリア鉄道
欧州大陸
京釡・京義・安奉経由
朝鮮北部・浦塩経由
満州・中国経由
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Ussurysk
満州路線図
Irkutsk
ところがアムール鉄道については凍土や疫病などに阻まれ工事が難航していた。折りしも日清戦争で負けた清国の日本への賠償の遼東半島問題に干渉して、清国に恩を売ったロシアはその同じ土地の租借権と満州地方への鉄道敷設権を得て、シベリア横断鉄道の一区間となる満州内の東清鉄道を建設するに至った。満州里から哈爾賓(ハルビン)、ウラジオストク、旅順までの全線が開通して、1901年11月3日シベリア横断鉄道の全通の日となった。途中バイカル湖付近では夏の連絡船、冬の氷上線路での連絡であったが、日露戦争の勃発により、突貫工事でこの区間の周バイカル鉄道が開通し、1904年9月25日、本当に鉄道による全線開通となった。
日露戦争の敗北で満州での権益を大幅に失ったロシアは、当初の計画通りにアムール川に沿ったロシア国内に鉄道を完成させる必要に迫られ、1916年にスレチェンスク−ハバロフスク間のアムール鉄道が開通して、現在のシベリア鉄道の形となった。ちょうどこの頃、1914年からの第一次世界大戦では、戦争で疲弊した民衆の不満が爆発して1917年のロシア革命、国内戦争、外国干渉軍のウラジオストック出兵へと続いた。日本の干渉軍は他国軍が撤兵した後も極東に居座り続け、1920年ロシア・ソビエト共和国は、緩衝軍と敵対しているソビエト政府とは関係のない緩衝国である極東共和国を樹立して日本の撤兵に尽力し、1922年10月撤兵に成功した。極東共和国は11月にはロシア・ソビエト連邦共和国に編入されている。シベリア撤兵以来日本からの欧亜連絡は再びスエズ運河経由の船旅中心となった。日ソ通商条約の締結により、1927年にはシベリア鉄道経由での欧亜連絡が再開されたが、1941年には第二次世界大戦のためにシベリア横断急行の運転中止、戦後も外国人の乗車が許可されたのは1966年になってからであった。ウラジオストックの街が一般旅行者に解放されたのは1991年になってからであった。
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