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京奉鉄路
欧亜連絡
唐山
山海関
奉天
天津
北京
山海関
満州路線図
満州・中国経由
京奉鉄路は、北京と奉天(瀋陽)を結ぶ鉄道で、中国で実質的に最古の鉄道である。1881(明治14)年、唐山=胥各荘間に開通した唐胥鉄路公司がその前身で、初めは動力に馬力を用いていた。直隷総督であった李鴻章の主導により建設され、英国借款によって、蘆台(1887)、天津(1888)に延長、東へも古冶(1891)、山海関(1894)、さらにロシアの反対を押し切り関外への路線も延長され、日清戦争までに綏中県(1894)まで開通して、関内外鉄路と改称されている。日清戦争後、工事が再開され、豊台(1897)、北京正陽門(1900)まで開通した。その頃、欧米列強諸国を中国から排除せんとする義和団の乱(1900年)が発生、鎮圧に乗り出したロシア軍とイギリス軍による鉄道修復と占領状態が続き、1901年10月になって清国の管理に返還された。その後、1903年に新民まで開通したところで、日露戦争(1904年)が勃発、日本軍は皇姑屯=新民間(新奉鉄道)に軽便鉄道を速成し軍用に供した。戦後、新奉鉄道は清国に買収され、標準軌に改軌され、皇姑屯に瀋陽站が開設された(1907年)。京奉鉄路と改称されたが、奉天での終着駅に関して、独自の奉天站(清国の希望)、満鉄奉天站の共同使用(日本の希望)の2案で交渉が長引き、1911年になって京奉鉄道の終点駅を奉天総站とする延長線が完成した。ただし、急行列車は満鉄奉天站、その他の列車は奉天総站の発着となった。1912年、辛亥革命により中華民国が樹立されたが東北軍閥による実効支配の混乱(北洋軍閥時代)が続くなかの奉直戦争では、関内外での分断が起こり(1924年)、張作霖の爆殺により軍閥が衰退し、国民党・中華民国の統一政府が南京に樹立(1928年)され、奉天省の遼寧省への改称がなされると、奉天=北京間は再び一元管理されるようになり、北寧鉄道(1929年)と改称された。1931年の満州国の設立により、奉天=山海関間は満州国鉄に接収、奉山線となり、全ての列車は山海関での乗換を要し直通列車はなくなってしまった。その後、北平=奉天間通車協定が成立し、東方旅行社によって1934年7月1日から1日1往復、1937年2月1日から1日2往復の直通列車が運転されるようになった。
1937(昭和12)年には日華事変が始まり、北寧鉄路では満鉄が中心となって占領地域への軍事輸送が運営されるようになり、1938年には北支地域の占領地の鉄道・自動車・水運の管理を行うための会社として華北交通が設立され、華北交通京山線と改称された。(1938年6月14日から)。

時刻表:
1930年(民国北寧線)
1934年(満州国誕生後)
1942年(華北交通誕生後)
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上:京奉鉄路車両掲示用の社章(神田 交通博物館にて 2001年)
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