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新京
哈爾浜
寛城子
長春 ChangChun
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1895年,日清戦争の下関講和条約で日本への割譲が確定した遼東半島は、ロシア・フランス・ドイツの三国干渉により、賠償金の支払いと交換に清国に返還されることとなった。ロシアはこの賠償金への援助を申し出て、担保として、旅順・大連の25年間の租借権と東清鉄道の敷設権を清国に認めさせた。そして、満洲里 - クロデコヴォ間の東清鉄道本線と、ハルピン - 旅順・大連間の南満洲支線は1903年に完成した。
1904年には日露戦争が始まり、1905年に結ばれたポーツマス講和条約では、南満洲支線の長春 - 旅順口間の日本への譲渡が決められた。しかし、東清鉄道南満洲支線では寛城子に駅がおかれ、長春とは離れていたことにより、条約の実施に当たって日露双方の意見が対立した。結局、日本は頭道溝に新たに鉄道付属地を買収して長春駅を建設し、寛城子の鉄道付属地はロシア側に残された。
寛城子駅 (上:絵葉書)
北満鉄路の満洲国への譲渡に伴い満洲国鉄への編入、新京駅付近でのルート変更により、1936(昭和10)年9月1日に廃止となった。現在、駅舎は無くなったが、かつての駅前にあった東清鉄道倶楽部の建物が病院となって残っている。(下:2016年8月訪問)
旅客列車は長春駅で接続、貨物は北行きが寛城子駅、南行きが長春での積み替えが行われることになり、両駅間は、標準軌、ロシア広軌の両方の線路が敷かれることになった。
1931年の満州事変ののち、1935年3月23日、北満鉄路のソ連から満洲国への譲渡協定が成立し、8月末までに標準軌への改軌が完成し、9月1日からは東廻新線が開通、新京駅でのスイッチバック運転が解消され、寛城子駅は廃止された。大連からの特急「あじあ」はこの時からハルピンまでの直通運転が開始された。
地図 右:昭和20年路線図(満鉄第四次十年史 より 下:1935年製版 1万分1地形図 陸地測量部 (東廻線開通前)
 
東廻線開通後(1936年修正)
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欧亜連絡
満州・中国経由
京釡・京義・安奉経由
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