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ウラジオストク港
日本浦塩間連絡船黎明期
 
 
浦塩航路
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1903(明治36)年に東清鉄道とウスリー鉄道の支線と接続され、ウラジオストクが欧亜連絡の要となろうとしていた頃、日露戦争が勃発、その終戦後、1906(明治39)年7月には、ロシア東アジア汽船会社が、敦賀―ウラジオストク間に週1回の直通定期航路を開設し、モンゴリア号(2937トン)が就航した。1907(明治40)年には大阪商船が大家商船の航路を引き継いで受命し、日本海廻航甲線は浦塩直航線と改称され、鳳山丸(2509トン)が就航、ロシア東アジア汽船の路線もロシア義勇艦隊に引き継がれ、シンビルスク号(2648トン)が就航、追ってアリヨール号も追加配船された。ウラジオストクでのウスリー鉄道・東清鉄道との連絡運輸は当初はロシア義勇艦隊が独占し、大阪商船の連絡運輸は、1910(明治43)年から日満連絡運輸、1911(明治44)年から日満露連絡運輸、1913(大正2)年から欧亜連絡運輸が開始された。しかし、1914(大正3)年、第一次世界大戦勃発、1917(大正6)のロシア革命、1918(大正7)年から1922(大正11)年までのシベリア出兵とロシア(ソ連)の国情不安のため、大阪商船にとって経営上の苦難が続いた。ライバルのロシア義勇艦隊は、帝政ロシアの瓦解とともに経営基盤を失い 1920(大正9)年に撤退している。1927(昭和2)年には休止していた欧亜連絡運輸が再開されたが、この浦塩航路は1929(昭和4)年に北日本汽船に譲渡された。
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1894年築の駅舎と波止場の風景 
(左:沿海州写真帖 明治37年刊、右:Vladimir k. Arseniev, 1997 Ussury publishing
現代の船舶ターミナル (2000年訪問)
折しも にっぽん丸が停泊していた。
1840年阿片戦争が起こり、清国は1842年の南京条約を契機にイギリス、アメリカ、フランスなどに開港して列強の力が急速に極東に及んできた。これを受けてロシアは英仏艦隊によるカムチャッカ侵攻を危惧するようになり、アムール川を唯一の現実的交通手段ととらえ、清国との国境問題がクローズアップされるようになった。1858年の愛琿条約、1860年の北京条約で、アムール川左岸はロシア領、アムール川右岸はウスリー川以西を清国領、以東はロシア領として国境線が確定した。ウラジオストックが開港したのは1861年。オデッサ(ウクライナ共和国)からの義勇艦隊による定期航路が1880(明治13)年にひらかれ、途中長崎に寄港するもので、日本とウラジオストクを結ぶ最初の定期航路でもあった。続いて、1889(明治22)年には日本郵船が神戸―長崎―釜山―元山―ウラジオストク間の航路を開設している。
より捷径となる日本海横断航路では、1896(明治29)年10月、新潟―ウラジオストク間で大家七平による定期航路が開設され、愛国丸(1722トン)が就航、1901(明治34)年4月には日本海廻航線に改められ、毎月1回、小樽・コルサコフ・小樽・函館・新潟・ウラジオストック・新潟・函館に寄港するようになった。1902(明治35)年には敦賀拠点で航路の再編が行われ、日本海廻航甲線、門司―敦賀―ウラジオストク―敦賀―小樽―ウラジオストク―元山―釜山―門司、その逆回りの日本海廻航乙線となった。
欧亜連絡
シベリア鉄道
朝鮮北部・浦塩経由
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浦塩航路
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