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朝鮮の国土と鉄道の分断
北緯38度線
 
38度線↓
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開城
土城
青丹
延安
白川温泉
1945年8月15日、日本の敗戦で解放された朝鮮半島、北緯38度を境として、北がソ連軍、南がアメリカ軍によって分割占領され、鉄道も38度線で分断されることとなった。京義本線は、南側は土城、北側は沙里院で分断、土城から海州へ向かっていた土海線は、青丹で分断された。京義本線の龍山発土城行、そこから狭軌の土海線青丹行の列車が南側の手で運転されていた。当時は京義本線の列車は龍山=土城間4往復、土海線も延安、青丹までの列車が4往復運転されていた。

1950年6月25日未明4時頃、北朝鮮軍は38度線を越えて、南侵を開始した。9時頃には注文津、開城、青丹まで侵入、6月26日にはMUN山を占領していた。6月27日には国連が韓国軍支援を決定したが、緒戦は北朝鮮軍が優勢で、8月末までに国連軍は釜山付近にまでに追い詰められていた。9月15日、マッカーサーは仁川上陸で北朝鮮軍の兵站線を絶つ作戦を断行し、戦局は一転した。
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地図: 25万分1、韓国国立地理院

動乱前の列車の運行と625当日の状況 
韓国交通動乱記 交通史編纂委員会 1953
都羅山
土城
10月20日、韓国・国連軍に鴨緑江国境までの進撃命令がくだり、10月26日には、これに応じた中国共産党軍と接触した。12月4日には平壌撤収、1951年1月4日にはソウルも撤収しつつも、3月14日にはソウルを取戻し、それ以降は38度線付近で膠着状態が続くことになった。国連の提案により7月10日から開城で始まった休戦会議は
2年を費やし、1953年7月23日に休戦協定が結ばれた。

休戦後、韓国側の京義線はMUN山までの運行となった。
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欧亜連絡
朝鮮鉄道略図
京釡・京義・安奉経由
京義本線略歴
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