西鮮殖産鉄道は、沿線に産出する鉄鉱石の運搬のために建設された鉄道で、銀龍面鉄山からの 内土=上海間、載寧鉄山からの 載寧=上海=沙里院間が大正8年、9年に開業した。大正12年には朝鮮鉄道と合併して朝鮮鉄道黄海線となって、信川(大正10年)=水橋(昭和4年)=長淵(昭和12年)、未力(大正13年)=下聖(大正14年)=鶴{山見}(昭和4年)=東海州(昭和5年)=海州港(昭和6年)の順に路線を延長していった。本来は標準軌で建設されるべき輸送量のある路線ではあったが、資金の都合で762mmのナローゲージで建設された。終戦時には、朝鮮総督府鉄道に買収され、沙里院=下聖間の標準軌路線も完成していた。
動乱後、銀龍面鉄山跡の貯水池化の影響もあり、載寧方面へは銀波(沙里院からの標準軌線から分岐)、新院・海州方面へは、下聖から標準軌線を延長して線路の付け替えが行われている。グーグルマップによれば、旧狭軌線の一部には橋脚の跡などが残っている。
銀波
標準軌線
旧狭軌線
昭和13年時刻表から
橋脚あり
橋脚あり
トンネル跡
地図は、1977年測図の1:50,000地形図(高麗書林発行)に旧狭軌線を緑色で加筆したもの。