国道の東側に変わって路盤は尚も続いて橋跡(橋台1組橋脚5脚、写真3)の先に続く入口の塞がれたトンネルに続いていた。反対側 出口からの路盤は国道の旧道にそって西井川を渡って清河集落に続いていた。清河集落の中心地付近には駅らしい跡形はなく、その横の傾斜地に広がっている畑のなかをカーブして1km程進むと、草叢のなかに見え隠れしている石積みの列が現われた(写真4)。70/80m続いているこの石積みは勿論ホームになるはずだったものである。清河駅は此処に計画されていたのだった。此処は浦項から東海沿いに北上する現在の直行バスの清河停留場にほど近い場所である。ホームの所から国道を越えて進む道床跡は細長い田圃となって少しすると左に曲がって視野から去っていった。一般道路を迂回してその方向にいくと、その道路と交した道床跡は周囲の田圃のなかに続く築堤の上の畑に姿を変えて直線で続いていた(写真5)。工事が完成していた松羅までは此処から約3km、この様子で残っているようであった。
すぐにでも汽車が走れるくらいに完成していたが戦争による物資供給困難の為に未開業のまま残された路盤は、東海線を名乗ることなくこのまま風化が進んでいつかは忘れられてしまうのだろうか。