東海北部線(未成区間)<光丁 - 襄陽> 1990.4.30
襄陽の街が近付き国道が南大川の河岸に達するところでまわりの視界が開けた。すると前方右手方向に未開業線の橋の跡が見えた。大きな橋で、橋脚が27本と橋台が残っていた。この橋の橋桁の架設工事中に日本敗戦となったものである。国道が南大川を渡る橋は随分と上流に架かっていて、これを渡ったところで、わたしはバスを降りた。早速、先程の未開業線の橋に向かって歩いた。この橋が渡ろうとしていたのは南大川だけではなく、それと平行する束草へ向かう国道もであった。先程の橋脚は、河川部21本、国道部6本である。
江陵から続いていた路盤のあとは南大川の橋台の裏にも築堤として続いており、それを歩いてみると左からもう一本の築堤が近付いてきた。この築堤の出現で襄陽駅の位置がわからなくなった。もうすでに襄陽の街からかなり離れているし、この築堤は襄陽の街の中心部に近付いて行くように見えた。手元には旧線時代の35万分1地図が在るがこの疑問が解けるほど詳しくない。しかし、南大川の橋の位置関係から考えるとこの先に駅があったと思われる。農作業中の人に片言の韓国語できいてみると、やはり襄陽駅はふたつの築堤が交わるところにあったという。それでは謎の築堤は何なのだろうか。その時は結局わからなかった
襄陽の駅は市街部からはかなり離れた所にあった。未開業路盤の上を歩いて襄陽駅跡に近付いていった。するとなんと、襄陽駅跡にはホームが残っているではないか(写真)。荷作業用と旅客用それぞれ1面づつはっきりと残っていた。それと大きなコンクリートの構築物の跡が残っていた。おそらくは機関車の給水設備でないかと思われる。 これらの写真を撮っていると、地元の老人が近付いてきて何やら話し掛けてきた。写真がどうのこうの言っているのだが、はっきりとはわからなかった。自分が日本人で韓国語が少ししかわからないことを告げると、その人は言葉を日本語に変えて話してきた。戦前に日本の学校を卒業したそうで、日本語がわかるということだった。ところで、先程は何を言っていたのかというと、わたしを北のスパイだと思って確かめたのだという。ちょうどその時、軍隊が落下傘降下訓練をしていてそれを撮影していたのかと思ったらしいのである。間違えだと知ってその老人は、大韓民国国民のスパイ申告の義務について説明をした後、間違ったことを謝って去っていった。さすがは、南北境界近い地域であり緊張した一瞬であった。