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極東〜欧州航路
Far East - Europe Line
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東南アジアにおける欧米の植民地
大航海時代のスペイン、ポルトガルは香料と黄金を求めて東南アジアに進出し、1529年にはポルトガルがモルッカ(Maluku マルク諸島)を占領、1571年にはスペインがマニラを占領してフィリピンを領有した。1596年には、オランダの貿易会社の船団がジャワ島のバンタム港に入ってきた。
スエズ運河の開通
アジアにおける植民地と宗主国を結ぶ手段は喜望峰まわりの4ヶ月以上かかるルートか、スエズ地峡の砂漠越えのルートであった。スエズ運河は フランスの過半数出資のもとエジプトの建設許可がおり、1869年11月16日には待望の開通式を迎えた。7つの海を制覇するイギリスは、スエズ運河に恐怖を抱き、1875年には、国際スエズ運河会社の株式の44パーセントを買収し、すぐにスエズ運河の経営をはじめ、エジプトの経済を手中におさめた。アジアの植民地への航路はこのスエズ運河の開通で大きな距離短縮が図れるようになった。
 
植民地と宗主国の連絡
イギリスの船会社 P&Oは、1842年にはスエズ〜アデン〜セイロン〜マドラスに航路を設け、1849年にはシンガポール〜香港〜上海、1852年にはシンガポール〜豪州、1859年には上海〜長崎間を延長して日本へ定期船がやってくるようになった。長崎を選んだのは良質な燃料炭を積み込むののが目的であった。フランスの船会社 メサジェリ・アンペリアール社(後のメサジェリ・マリティーム社)は 1862年からサイゴン、1893年までにインドシナ航路を開設している。MMは当初は マルセーユ〜アレクサンドリア<陸路連絡>スエズ〜シンガポールのサービスであったが、1869年からはスエズ運河を経由するようになっている。オランダ東インド会社によって支配されていた スマトラ列島、ボルネオ、セレベスとニューギニア島には、オランダのロッテルダム・ロイド社の船が運航し、南洋諸島を持っていたドイツは、 1893年 北ドイツ・ロイド社をして極東航路を開設している。日本はP&Oの斡旋により、同盟加入が許され1896(明治29)年に配船を開始している。
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横浜
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神戸
上海
香港
新嘉坡
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門司
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古倫母
蘇土
坡西土
馬耳塞
倫敦
欧州大陸
日本の玄関
欧州極東航路
日本郵船
Peninsular & Orient Steam Navigation Co.
Messageries Maritimes
North German Lloyd
これは1602年にオランダの連合東インド会社になるもので、オランダと日本の交流もこのときから始まっている。オランダは 1641年にマラッカ(Malacca) を占領してマラッカ海峡周辺諸国への支配を強めていった。同じころ、1601年にはイギリス東インド会社の最初の遠征隊がジャワ・スマトラに向かっているが、オランダの強い攻撃にあって、その後の目的地をインドに変えるようになった。18世紀になって産業革命による工業化で国力を飛躍的に高めたイギリスは積極的にアジア進出を加速し、先行していたスペイン、オランダなどとの勢力争いを繰り広げながら、1824年にはマラッカとシンガポールを領有してマライ半島支配へとつなげた。アヘン戦争はイギリス本土への絹と茶の輸入超過による貿易赤字を食い止めるために、インドで栽培したアヘンを中国に売りつける商売が火種となって1840年に勃発し、中国の惨敗、南京条約によって香港のイギリス領化、更に、1860年のアロー号事件の結果、九龍半島側もイギリス領になった。フランスも1859年以来インドシナへの進出を開始し、1893年にはラオス、カンボジア、コーチシナ (Cochin China, ベトナム南部)を含むインドシナ連邦を設立した。長くスペインの支配下にあったフィリピンは 19世紀末の米西戦争の結果、アメリカの領有に変わった。


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