1905年の日露戦争のポーツマス講和条約において、東清鉄道支線の南半分が日本に割譲されることなり、大連を含む遼東半島を失ったロシアは、極東の不凍港としてのウラジオストックに再び注目せざるをえなくなり、港湾都市の整備を加速させた。1907年には道路の舗装、1912年には路面電車の路線完成し、ヨーロッパへの路線も日本の勢力が入り込んだ中国満州地方を横断する東清鉄道よりも自国領内を通過するアムール線が軍事上有利として1916年にハバロフスク経由アムール線を開通させた。ちょうどその頃、1917年にはロシア革命が起こり、それに対する外国干渉軍の出兵とソ連国内情勢の不安のため、欧亜連絡運輸は中止され、1927年に再開されたが、1941年の第二次世界大戦の勃発により中断、戦後もウラジオストックの街が一般旅行者に解放されたのは1991年になってからであった。