日露戦争前の満州の鉄道は、イギリス借款の京奉鉄道と、ロシア借款の東清鉄道だけで、日本は満州における鉄道敷設権を全く持たずに日露戦争が始まり、東清鉄路という後方支援ルートを持つロシアに対しては当然のことながら全くの不利な情勢の戦争開始であった。日露戦争の兵站線の建設運営のために大本営によって編成された臨時軍用鉄道監部は、朝鮮半島における京義軍用鉄道の建設や満州占領地内の軍用鉄道敷設、東清鉄道の1067mmへの改軌を行っていた。安奉鉄路もその臨時軍用鉄道監部によって建設された軍用鉄道で、初めは狭軌(762mm)で建設され、安東から鳳凰城、下馬塘と竣工し、遼陽にいたる予定であった鉄路は、奉天会戦の勝利によって、奉天を東清鉄道との接続点にすることとなり、1904年12月3日、奉天までの路線が完成した。ポーツマス講和条約では東清鉄道南満支線のうち、寛城子−大連・旅順間がロシアから日本に割譲されることが決まり、1905年、清国は日本に対して、東清鉄路の南満支線の経営を引き継ぐこと、安奉鉄路の改築と経営、吉長鉄路 の建設と経営を認め、新奉鉄路に関しては、経営を認めなかった。安奉線の改築は、陳相=奉天間のルート変更に関して、満鉄と清国の間で折り合いがつかず遅れていたために、安東=陳相、渾河=撫安=陳相間で撫順の一部を使った仮のルートでの改築が1909(明治42)年に開始され 1911(明治44)年 にこのルートでの一応の完成し、鴨緑江橋梁が開通と合わせて京釡・京義・安奉線の日鮮満(日朝中)を結ぶ大動脈が完成したのである。満鉄の希望した蘇家屯で満鉄本線に合流するルートが完成するのは1919(大正8)年12月になってのことであった。
本渓湖駅
街の代表駅を本渓駅に譲り、本線のルートも変わった。
(安奉線改築工事記念写真帳 1913)
左: 5万分1 本渓湖 昭和11年測図
本渓湖駅付近に集落があり、宮原駅付近はまだ集落が発達していない。
右:25万分1 AMS地図 1950
安奉北乙線
安奉線
石橋子
本渓湖
本渓
奉天
南奉天
撫安
陳相
蘇家屯
渾河
左:石橋子駅での新旧列車
上:撫安駅付近での標準軌を追加した4線軌条
(安奉線改築工事記念写真帳 1913)
その後、満州国が設立され、第二次大戦が始まり、この大動脈はより必要性を増して、京釡・京義線の複線化の進行とともに昭和15年より主要隧道・橋梁の改築工事に着手し、昭和19年9月までに全線の複線化が完成した。線路、橋梁の資材は、連京線の南部(大石橋−二十里台間193粁)を単線化して転用した。
この工事では従来線に拘らずに別線増設した区間があり石橋子=宮原間は東回りの安奉北乙線として昭和19年10月1日に開通した。現在では宮原駅が本渓駅に改称され、街の代表駅となり、増設線が本線として使われている。