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Polish Coal Trunk Line
ポーランドの石炭幹線
 
Gdynia
Bydgoszcz
Inowroclaw
Herby Nowe
Kepno
Zdunska Wola
Kalety
Chorzow Batory
Koscierzyna
Poland Corridor
Bytom
第一次世界大戦以前は、プロイセン、ロシア、オーストリアの3帝国によって分割統治されていたポーランド、ヴェルサイユ条約で認められた新しい領土では、3国がそれぞれの事情で建設した鉄道網を連結統合する新線が建設されていった。
1740年、ハプスブルブ家の家督をマリア・テレジアが継承したことから始まる第一次シュレジア戦争以来、プロイセンの統治が長く続いていたシュレジア地方、その南東部分の上シュレジア地方では、1921年の住民投票が行われ(帰属希望ドイツ6割、ポーランド4割)、ドイツとポーランドに分割されることになった。
世界地理風俗大系16(新光社、昭和5年)に依れば、「国際連盟の決定では、その石炭産地の大部分をポーランドに与え、もってドイツの資源を奪って、将来の発展を制限せんことを期した。即ち炭坑総数61中50、製鉄所37中22、製鋼所18中9、亜鉛及び鉛鉱山16中12、亜鉛及び鉛精錬所全部はポーランドの有に帰した。」
石炭大産地を手に入れたポーランドであったが、産出炭を新生ポーランドの各地に輸送する手段は十分ではなかった。ワルシャワ、ウィーン、ベルリンへは直接向かう鉄道があったが、其の他の地域へは遠回りのルートしかなかった。
ポズナン地域へはオーデル右岸鉄道(ROU)とポーゼン・クロスバーグ鉄道(PKE)のクロスバーグ経由のルートが最捷路であったが、クロスバーグがドイツ領に留まったため、ポーランド国内を通る鉄道新線がカレティー(Kalety)-ポドジャムチェ(Podzamcze)間に建設され、ケンプノ(Kepno) でポズナンへのポーゼン・クロスバーグ鉄道の本線に接続された(1926/11/6)。
また、この路線の途中ヘルビー・ノウエ(Herby Nowe)から分岐し、まっすぐ北にイノブロツワフ(Inowroclaw)を目指す新線が建設され(Herby Nowe -1930/11/8-Zdunska Wola -1933/3/1 - Inowroclaw)、フィドゥゴシュッチ(Bydgoszcz)からの新線(1930/11/9開通)と併せてグディニア(Gdynia)への石炭輸送の幹線となった。
石炭幹線では、貨物列車主体の運行であったが、カトビッツェ-グディニア間を12時間程かけて走る 1,2,3等車連結の普通旅客列車(1411列車,1412列車) が運行されており、Kepno/Poznan/Inowroclaw/ Bydgoszcz/ Tczew経由で Lwow - Ddyia 間を走る急行列車(7列車、8列車)と同じ時間帯に走っていた、グディニア行の 1411列車と8列車は Bydgoszcz で相互乗換ができるダイヤであった。
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Bydgoszcz - Gdynia 間時刻表 1935年
Herby Nowe - Inowroclaw 間時刻表 1935年
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ワルシャワから欧州各地へ
欧州大陸
ベルリンから欧州各地へ
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